折伏スゴロク

自分と友人が幸せになる折伏

願いの叶う祈り方は・・・

昔はよく、指導を求めて先輩のところに行った。

(指導を求めるための先輩はいつもいた方がいい)
ほぼ間違いなく返ってくる言葉は
「題目しかないよ」でした。
 
正解だが、大変だった。
 
いくらあげても、しっくりこないことがあった。
自分自身の捉えかた。祈り方に何か間違いがあるのか?
 
ほとんど、りゃっこう修行状態だった。
※りゃっこう修行とは、何度も生まれ変わって修行をして、やっと悟りを得ること。
 
入会まもない頃は
「お願いの祈り→確信の祈り→感謝の祈り・誓願の祈り」へと変化していく
という王道の祈り方も知らなかった。
 
今思えば、その当時は指導する方も知らなかったんじゃないの?
と言いたくなる。
 
そして、究極の祈りである「誓願の祈り」
広宣流布のために」との、大境涯で祈るには
相当の確信がなくては、自分自身の深層心理が
それを信じてくれない。
 
頭では、広宣流布のためにと思っていても
現実は、目の前にある悩みを受け止めるだけで
精神的エネルギーを使い果たしていることがある。
 
法華経の行者の祈りは叶う」とのご金言もある。
これも、私のような未熟な学会員には荷が重いときがある。
 
それなりに役職を頂いていたとしても
真実の姿は、朝寝坊をすることもある。
時間があったら、惰性でテレビを見てしまうこともある。
心こそ大切なれといいながら、パチンコにいく人もいる。
 
どうあがいても、心の奥底にいる自分だけは
本当の自分の姿を知っている。
もし、弱気になって「法華経の行者の祈りは叶うけど
自分はまだまだだから」なんて思った日には何も叶わない。
 
 
●「願いの叶う祈り方」は?(私の境涯での考え)
 
まずは、自分を肯定するところから始まると思う。
 
こんな自分に悩みが来るのは、なるべくして成った罰だとか
過去世の宿業だとか、「どうして私が・・」という
信心への不信などが出てきたら
まずは、そういうモヤモヤしたものを
自分の中から 吹っ飛ばしたい。
 
なので、まず始めに「私は100%地涌の菩薩である」と
深呼吸をして、自分を肯定することが大切だと思う。
なぜ地涌の菩薩なのか?理由はカンタンです。
末法に生まれてきて、信心をしているからです。
奇跡の中の奇跡を、もう手に入れている自分がいる。
このあまりにも当たり前のことを、心の底から信じたい。
自分って「めちゃくちゃ運がいい人」だったんだ。
 
そして、もっと大事な地涌の菩薩の証拠は、
「悩みが出て来た」ということだそうです。
 
過去の菩薩や仏は、完全に成仏しているので
悩みがない。悩みが出てこない。
 
地涌の菩薩だからこそ、悩みが出て来たのです。
それも、自分で計画的に出した悩みだ。
「そんなこと知らない」と言っても本当らしい。
 
願兼於業で、自分で作った人生のシナリオに
ちゃんと書いてあるらしい。
※願兼於業・・自ら願って悩み苦しむ人生を歩み、全てを乗り越えて実証を示すと計画してきたこと。
 
ということは、やっぱり私たちは法華経の行者であり
地涌の菩薩であることは間違いない。
「一念の違い」「心の根底の違い」
一瞬で変えることのできる「その一念」をどう変えるか?
結局、誰のせいでもない。全ては自分の責任。
  
 
「ご本尊の前に座った瞬間から
悩みが解決することは確定している。」という
この一念を、特大の電気ドリルだと思って
 
岩盤のような自分の煩悩に突き刺し
両手で握りしめてダダダダ・・・と
砕き、けちらして、生命の奥底にある仏界のゾーンに
到達したイメージをしたい。
 
あとは、この悩みに立ち向かっている自分を褒め
「私の現実は、シナリオ通りに動いている。
当然のように悩みは解決する」と確信した自分を演じる。
 
そして、やれるだけのことを全力でやる。
良い結果が出ないわけがない。と
自分の心の師が言っているような気がする。
 
 
 
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